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  • サークル名:原風景を歩く(O.C.)


    ■彦左衛門さんの話

    以前、屋敷を見学させていただいたことのある、大和東山中、宇陀の片岡彦左衛門を再び訪れました。「彦左衛門」さん・・・・ずいぶん古風な名前ですが、大庄屋をつとめた家で、370年間、代々「彦左衛門」の名を襲名されてきたそうです。彦左衛門さんの話は、まるで370年間、この宇陀で生きてきたような話です。

    鴨居のそばに収められている弓矢を見上げながら、「この弓矢は、大和郡山の殿様が、ときおりここに狩に来られたときに使われたものです。郡山からは、大和盆地をまっすぐに横切って来れば近いのですが、わざわざ遠回りして吉野の下市から三茶屋(みっちゃや)の辻を経て来られました。当時、大和盆地は他藩の領地で、私的な狩に来るときには通りにくかったのでしょうね。この大宇陀は、当時郡山藩の領地の吉野郡に属しており、自分の領地内の吉野を通って遠回りして来られたのです」

    土間を案内しながら、「ここが馬小屋です。名前は馬小屋ですが、牛を飼っていました。牛は毎年農耕の季節になると、大和の国中(くんなか)から借りていました。季節が過ぎ、牛を返すときには、大和国中と宇陀の境の女寄峠まで送って行って、牛におやつをつけて返したもんです」と話される。
    女寄峠を越える道は、神武天皇が大和に攻め入る道のひとつでしたが、平和な江戸時代には牛たちが越えて行った道でした。

    白洲正子のエッセイ、「かくれ里」や「道」に描かれた宇陀に惹かれて訪ねてきたことをお話しすると、「白洲さんも吉野への取材の帰りに、ここに立ち寄られましたよ。この縁に座って、右手に見える烏の塒山や、正面のろくろ山、目の前の欅の大木を眺めておられました」
    そう言って見せてくださった記録には、白洲正子の直筆でこうしたためられていました。
    「烏の塒山と千年欅とろくろ山を詠して言ふことなし  昭和(平成4年)霜月」
    白洲正子に「言うことなし」と言わしめた宇陀の旅風景、宇陀の道、それはまさしく白洲正子の「かくれ里」の風景であり、「道」の風景そのものです。

    ■宇陀の道を巡りながら

    彦左衛門さん宅を離れ、宇陀の山々の間を縫い、峠を越えながら縦横につながる道を巡りながら思います。
    この鄙(ひな)なる宇陀の辻や峠で、ときおり古い道標に出会うのはなぜでしょう。どこからどこに続く道なのでしょう。この道標はどんな歴史を物語っているのでしょう。
    西に向かえば大和盆地へ、東に向かえば伊勢へ、北には笠置から京都へ、そして南に向かえば吉野につながっています。

    一見、有史以来何事もなかったように穏やかな山間の道ですが、宇陀の道は古来歴史の通り道でした。
    古くは伝説の倭姫が天照大神の御杖として、大和から諸国を旅して東に向かい、伊勢神宮創建に至るまで、この宇陀をも彷徨ったことでしょう。
    また神武天皇が熊野より吉野山中を北上し、大和盆地に向けてまずたどり着いたのがこの宇陀の地でした。
    壬申の乱のおり、吉野に逃れていた大海人皇子(天武天皇)が、吉野から不破(関が原)に向かったのも、この宇陀の道でした。
    さらに天武天皇の死後、その娘、大来(おおく)皇女は、処刑された実の弟、大津皇子をしのんで、伊勢から大和に向かったのもこの宇陀の道でした。
    義経が幼年時代のある時期、常盤御前に連れられて宇陀郡龍門に身を隠したこともあり、後醍醐天皇が吉野に南朝を打ち立てたときにも、この宇陀の道を通ったことでしょう
    そして江戸時代になって庶民のお伊勢参りが盛んになると、宇陀を通る伊勢本街道、青越伊勢街道などが、伊勢に向かう街道として賑わいを見せたことでしょう。
    宇陀を東西に結ぶ道は、伊勢参拝の信仰の道であり行楽の道でした。宇陀を南北に結ぶ道は、政権から離脱した人の逃亡と復権の道でもありました。

    そんな道が山裾を巻き、峠を越え、交差しながら、今なお人知れず宇陀山中を巡っています。宇陀の道を巡るということは、歴史の裏舞台を旅することでもあるのです。

    (写真)
    1 彦左衛門さんの茅葺民家
    2 宇陀の道
    3 山中をゆく伊勢本街道
    4 伊勢本街道沿いの墨坂神社
    5 道端の紫陽花に雨蛙
    コメント6件を表示する 2011/07/01 09:51

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