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  • サークル名:原風景を歩く(O.C.)


     (「大化改新」から「壬申の乱」の舞台へ)

    ■飛鳥から多武峯(とうのみね)へ

    夏の朝、大和三山のひとつ天香具山を経て、青田に浮かぶ飛鳥の古墳群を眺めながら、橘寺方向に向かっていると、厳しい夏の光の中で、田園の緑が爽やかに風にそよいでいる。
    右手に蘇我氏の拠点、甘樫の丘、左手に中臣氏(藤原氏)の拠点、大原の丘を見ながら進むと、その間に飛鳥板蓋宮跡がある。

    西暦645年、飛鳥板蓋宮で朝鮮三国の使者を迎えて重要な儀式が行われようとしていた。
    蘇我入鹿は儀式の行われる大極殿に入ると、数名の者が入鹿に切りかかった。入鹿の頭は無残に割られ、鮮血が吹き上がり、女帝皇極天皇は驚き言葉を失った。その刺客の中から進み出たのが中大兄皇子(後の天智天皇)だった。
    「入鹿は我々天孫一族を根絶やにし、大王の地位を狙っていたのです」
    こうして、中大兄皇子と中臣鎌足によって、世の乱れを正す「大化の改新」は成し遂げられて、王族中心の中央集権をめざす新しい時代のさきがけとなった。
    中学校で習った「大化の改新」は、ざっとそのようなことだった。
    しかしそれがすべてだったのだろうか。ほんとにそれだけだったのだろうか。

    飛鳥のはずれに、蘇我馬子の墓とも言われている石舞台があり、このあたりから、多武峯に向かう坂道がはじまる。
    左手に見下ろす棚田は、細帯のような畦に縁取られ、斜めから射す朝の光が棚田をより立体的を見せている。彼方の山麓に連なる集落が、多武峯に向かってせりあがってゆく。
    やがて飛鳥の地を見下ろすあたりまで来ると、畦には石舞台にも似た石が居座り、素人の私には古墳の石に見間違えそうである。この黒い巨石は、いつの時代からここにたたずんでいるのだろう。千数百年前の、あの大化の改新の騒ぎを、この高台から見下ろしていただろうか。
    石のそばでしばし休んで、飛鳥の地を見下ろしてみよう。
    放棄された田も休耕田もなく、棚田はみずみずしい色で埋め尽くされている。
    この棚田はいつ頃開かれたのだろう。千数百年前の飛鳥時代に、いやそれ以前に、すでにこの棚田は開墾されていたのだろうか。当時、飛鳥地方は米作の先進地帯として、きっと棚田は開かれていたにちがいない。
    先祖代々人の手によって石垣を積み、畦を打ち、水を引き、先人たちはこの棚田を作り上げてきた。この緑の層は、古代人が大地に刻んだ立体作品といえよう。

    高台の石に腰かけて、飛鳥の地を望みながら思う。
    大化の改新にまつわる歴史は、教科書ほど単純でもなければ、きれいごととでもなさそうである。
    私がいま住んでいる大阪北部の高槻市から茨木市にかけては、中臣鎌足の領地だった。鎌足は神祇伯という高官に任ぜられながら、これを固辞し、病気と称してこの北摂の地に退いたという。
    茨木市を流れる安威川上流の桑原に地福寺があるが、このあたりは鎌足の邸宅があったところで、鎌足はすでにここで蘇我入鹿誅滅の策を練っていたともいわれている。
    時代は遡るが、それより数十年前、外来宗教の仏教導入派の蘇我馬子と、古来の神を祀る物部守屋、中臣勝海が対立し、物部、中臣両氏は蘇我氏に滅ぼされた。578年のことである。
    それから58年後、中臣氏の末裔、鎌足は、「大化の改新」という形で復活劇を成し遂げた。
    大化の改新を成し遂げた鎌足の本心は、どうだったのだろう。「世の乱れを正す」ためだったのか、あるいは「中臣氏復活」だったのだろうか。
    鎌足の墓があったといわれる北摂の阿武山は何も答えはしない。
    ただ言えることは、歴史とは後に勝者が書き記すものである。勝者が自らの正当性を語るために書き記すものである。この高台に座す石だけが、鎌足の本心を読み取っていただろうか。

    (写真)
      1.飛鳥の青田と天香具山
    2.甘樫の丘より西を望む
    3.飛鳥の光
    4.多武峯に向かう棚田
    5.朝の光の中で
    コメントする 2011/08/01 01:23

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