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  • サークル名:原風景を歩く(O.C.)


    ■吉野川宮滝あたり

    細い急坂を下り、山裾の田畑や村を行くと、まもなく吉野川にぶつかる。吉野川は吉野山中の豊かな水を集めて下るが、大和盆地を潤すことはなく、紀州に入ると紀ノ川となって紀淡海峡に向かってゆく。下流では川幅も広く、穏やかに流れていた川も、宮滝付近では緑青色の流れが激しく岩盤を削り、白く泡を立てながら森の間を蛇行している。

    吉野歴史資料館のある丘に立って南を望むと、眼下に集落や学校があり、その向こうには吉野川が下り、さらに先には吉野の山々が打ち重なり、その隙間から神山青根ヶ峯の頂上が小さく見えている。
    目をつぶると、集落の影も学校のざわめきも消え、飛鳥時代にあったといわれる宮滝付近の吉野宮が浮かび上がる。今は吉野といえば吉野山の桜や金峯山寺が連想されるが、その頃にはまだ吉野山は開かれておらず、吉野川宮滝付近に吉野宮があった。
    飛鳥人は、飛鳥から芋峠や細峠を越えてよくこの吉野宮を訪れた。飛鳥人は、吉野川の川辺に立ったとき、霧に包まれた吉野の山々に、豊かな神を感じただろう。吉野宮から望む神山、青根ヶ峯に向かって雨乞いをしたこともあっただろう。

    壬申の乱が終わり、天武天皇の時代が訪れた679年、天武天皇は后?野讃良皇女(うのさららのひめみこ、後の持統天皇)と六人の皇子たちを連れて吉野宮を訪れている。「大化の改新」や「壬申の乱」を目の当たりにし、また自ら肉親同士の乱の立役者でもあった天武天皇の頭には、父母の異なる皇子間での権力争いが生ずる不安がよぎったのだろうか。天皇は、この地で皇子たちが互いに結束してゆくことを誓わせる儀式を行った。
    また天武天皇の后であった持統天皇は、在位11年間に31回もこの吉野宮を訪れた。いったい何がこれほどまでに持統天皇をこの吉野に誘ったのだろう。
    この吉野の山々を激しく下る宮滝あたりの風光明媚な景色に魅了されてのことだろうか。吉野宮からはるか南に姿を見せる青根ヶ峯への雨乞いのためだったのだろうか。
    あるいは壬申の乱の折、吉野は夫の大海人皇子(後の天武天皇)が挙兵した思い出深い地であったからだろうか。
    また、天武天皇が天武時代の安定期に向けて、六人の皇子に誓盟の儀式を行った意味深い地だったからだろうか。
    さまざまな理由は想像されるが、それらの根底には、吉野の山川は古代の神々が支配する神仙境であり、飛鳥人の聖地への畏敬の念があったことが大きい。風光明媚な風景も神々からの賜りものであり、天武天皇の六皇子の盟約も、神山への雨乞いも、すべて吉野の山川のもつ仙境によるところが大きい。

    ■吉野宮と「壬申の乱」

    大化の改新で蘇我氏を倒して実権を握った中大兄皇子(後の天智天皇)は、667年に近江の大津に都を移した。その大津宮で重い病にかかり、671年、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)に後事を託そうとしたが、皇子はこれを辞退し、天皇の病気平癒を祈るためと称して出家し、吉野に引きこもったという。
    しかしこれは口実で、これが天智天皇の息子大友皇子との間での皇位継承権を巡っての争いである「壬申の乱」のはじまりである。大海人皇子は671年10月にこの吉野宮に入り、翌年672年6月に吉野から東国に向かって出陣している。吉野は大海人皇子にとって、身を潜めるためのかくれ里であり、「壬申の乱」策略構想の舞台裏でもあった。

    天智天皇亡き後、大海人皇子は大友皇子側から襲われる危険を感じて、出家して吉野に隠遁したのか、それとも、それ以前からの天智天皇と大海人皇子との確執が元になって、壬申の乱は計画されたのか。大海人皇子の壬申の乱の策略はいつ企てられたのか。それは歴史家にまかせることにしよう。
    ただ、壬申の乱に限らず、歴史は後の時代に記録されたものであり、勝者が書き記したものである。世界史においても、現代史においても、古今東西、勝者は正義であり、勝てば官軍なのである。歴史はこうして勝者の論理によって記録されてきた。
    ほんとうの歴史を知っているのは、吉野宮を眼下に見下ろしてきた青根ヶ峯と宮滝の流れだけかもしれない。

    (写真)
      1.吉野川を遡る
      2.吉野の深い山々
      3.壬申の乱の予感
      4.峠付近にてー光と陰
      5.夏の終わりに
    コメント9件を表示する 2011/08/20 11:38

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