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  • サークル名:原風景を歩く(O.C.)



    ■「壬申の乱」の道

    飛鳥から厳しい峠を越えて吉野川に下り、吉野宮のあった宮滝からさらに上流の国栖(くず)へ、そして吉野川の北にある津風呂湖に向かおうとしている。津風呂湖は南北を山で挟まれた緑の山影を映すダム湖であり、古代には津風呂川が下っていた地である。その津風呂湖沿いの山の斜面に津風呂春日神社がある。

    672年、天智天皇が亡くなると、大海人皇子は、后の?野讃良皇女(うのさららのひめみこ・後の持統天皇)を伴って、吉野で兵を挙げた。宮滝の吉野宮からまっすぐに峠を越えて、おそらくいま津風呂春日神社のあるあたりに着き、津風呂川を遡って、入野(しおの)から三茶屋(みっちゃや)あたりを経て、その日の内に菟田(うだ)の吾城(あき)に着いた。
    この道は、神武天皇が吉野から宇陀を経て大和盆地に向かった折に通った道でもある。吉野から宇陀にかけての山間を抜ける道は、古代の兵を進める裏街道だったらしい。
    吉野は、飛鳥からみれば、厳しい峠を越えた異界であり、宇陀の道は大和盆地の東に横たわる山々を縫う陰の道である。大海人皇子の吉野出陣の折にはわずかだった兵も、進軍とともに数を増し、伊勢、尾張、美濃へと軍を進めた。

    南北に位置する吉野の大海人皇子軍と大津の大友皇子軍が、なぜ遠回りの美濃にまで進軍し、不破の関でぶつかり合ったのだろう。美濃はもともと大海人皇子の勢力が扶植されていた地であり、兵や兵糧を確保することが急務だったのだろう。また不破の関といえば、後の徳川家康と石田光成が戦った天下分け目の「関ヶ原」のことである。時代を問わず、不破の関を押さえることが、戦略上重要なことだったらしい。

    ■歴史の舞台裏の風景

    「大化の改新」はわずか一日で決着がついた、しかし中臣鎌足が病気と称して隠棲した摂津の阿武山の山麓や、中大兄皇子と中臣鎌足が談合した多武峯の談山(かたらいやま)の森陰に、歴史の舞台裏が潜んでいる。
    映画にすれば壮絶な戦いの映像になりそうな「壬申の乱」も、わずか一ヶ月で勝敗が分かれた。やはり出家と称して吉野に身を隠した大海人皇子の吉野の山中に歴史の舞台裏が潜んでいる。

    「大化の改新」の頃の飛鳥の飛鳥板蓋宮の建物も、壬申の乱の頃の大津宮の建物も、吉野宮の建物も、今は何も残っていない。
    ただ多武峯の緑の森を歩き、吉野川のほとりに立って、森を抜けてゆく風音や川の瀬音の中に、千数百年の昔を想像するのみである。
    記紀を読み解くこともなく、発掘調査をすることもない歴史の素人にとっては、森の声や水の声に耳を傾けるほうが、舞台裏の想像が豊かに膨らむのである。

    (写真)
     1.壬申の乱はここから
     2.飛鳥と吉野を結ぶ
     3.鎌足をまつる談山神社
     4.鎌足の墓に向かう道
     5.森の声、花の声に耳を傾け


     
    コメントする 2011/08/26 12:25

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