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  • サークル名:原風景を歩く(O.C.)


    ■稲渕の丘―曼珠沙華(まんじゅしゃげ)と案山子

    蘇我馬子の墓ともいわれ、すっかり観光化された石舞台を右に見ながら、細川沿いに遡り、祝戸で右に折れると、ほどなく稲渕の村が見えてきます。村の入り口の飛鳥川には、縄を編んだ勧請掛けが下がっています。川下から川を伝って村に災いが入ってこないようにと、村の入り口に掛けられているのです。古今東西、災いは都会から静かな村に侵入してくるもののようです。
    今年の夏のはじめにこの道をたどったときには、棚田がゆるやかな層を重ねるだけで、ときおり畦の手入れをしている村人の姿を見受けるばかりでした。それが今日は祝戸からゆるやかにせりあがってゆく金色の稲田を、曼珠沙華((まんじゅしゃげ)が縁取り、おまけに案山子まつりの最中です。普段は、よそ者がほとんど訪ねることのないこの畦道を、今日は重装備した大勢のカメラマンが闊歩しています。できれば曼珠沙華が彩る稲渕とおおらかな案山子(かかし)たちのしぐさを愉しみながら散策するつもりでしたが、案山子の何倍ものカメラマンに圧倒されて気分が萎えてしまいます。村の入り口に張られていた勧請掛けは、曼珠沙華の季節になると川下から畦道に侵入してくるカメラマンの無作法に対しての警告だったのなのかもしれません。
    案山子まつりが終わったころ、もう一度静かな稲渕の道をたどることにしましょう。

    ■稲渕に古代を望む

    それから何週間か後に再び稲渕の丘に立つと、足元から金色の棚田がなだらかに下り、澄んだ空といわし雲が秋の深まりを感じさせています。その空を背に、この夏に登った多武峰の御破裂山が控え、目の前には、猪が伏せたような南渕山がこの稲田を守るようにたたずんでいます。
    あの案山子まつりの頃の騒がしさが嘘のように、今は金色の稲田は落ち着きを取り戻し、動くものといえば、色づきはじめた稲田で収穫の準備をはじめている人影と青空を背に宙にとどまるアキアカネの影だけです。

    この棚田を見下ろす丘からは、彼方の多武峰を見晴らせるだけでなく、飛鳥古京の時代さえも見はるかすことができそうです。
    この飛鳥古京のすぐ裏手にある棚田は、当時としては都市近郊農業であり、山から飛鳥川がゆるやかに下る棚田では水も引きやすく、案外早くから開かれたのかもしれません。
    稲渕入り口付近の祝戸には、稲渕宮があったようです。大化の改新後、難波宮に遷都した孝徳天皇に対して、中大兄皇子は「倭の宮」すなわち飛鳥に戻りたいと申し出たが許されず、結局、天皇を難波に残したまま、皇祖母尊(皇極天皇)、皇后(間人皇女)、皇弟(大海人皇子)とともに「飛鳥河辺行宮」に入りました。「飛鳥河辺行宮」とは、どうやらここ祝戸にある「稲渕宮跡」ではなかろうかといわれています。

    このあたりには、古くから渡来系漢人がけっこうたくさん住み着いていました。彼らは南渕山の木を伐ったために山がむき出しになり、天武5年、彼らの伐木を禁じて飛鳥川の水源を守ろうとしたようです。どうやらこの付近の棚田は渡来人が早くから開いた地だったのでしょう。「飛鳥河辺行宮」がこの稲渕にあったとすれば、当時中大兄皇子たちは、この地で渡来人の協力を得ていたかもしれませんし、渡来人は飛鳥の地でけっこう政権に影響力をもっていたかもしれません。
    一見、何事もなかったような稲渕の丘にも、飛鳥の歴史が埋まっているようです。

    (写真)
    1.稲渕の丘は曼珠沙華の頃
    2.案山子が道で迎えてくれる
    3.静けさを取り戻した棚田
    4.飛鳥はすでに秋の空
    5.たそがれの頃
    コメントする 2011/09/12 10:36

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