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  • サークル名:原風景を歩く(O.C.)


    ■檜前の丘―文武天皇檜隈安古山(ひのくまあこのやま)稜

    稲渕から雨風峠を経て、山の中腹を檜前(ひのくま)方面に向かうと、北には緑の丘と金色の稲田が織りなす野が見下ろされます。稲田を夕日に輝く瀬戸内海とすれば、丘は夕影の小島や半島、その間を埋める畑は灘や入江というところでしょう。
    この丘のどこかに天武、持統天皇の檜隈大内稜が潜んでいるはずですが、こう複雑な地形では、その丘がどこなのか見当がつきません。丘の彼方には、先ほど甘樫の丘から望んだ、特徴ある姿の畝傍山の影が、さらにその彼方には、やはりひと目で二上山とわかる山影が控えています。

    やがて山道は、小広い檜前の野に向かって下りはじめます。そろそろ文武天皇の檜隈安古山稜が見えはじめてもいいはずです。
    犬養孝氏の「万葉の旅」によれば、文武天皇稜は、「檜前の於美阿志(おみあし)神社の杜と、天武、持統天皇大内稜との中間にあたり、明日香村の大字栗原小字塚穴の田畑のあいだのこじんまり小円墳にすぎない」と記されています。
    正面の丘の杉木立は、多分、於美阿志神社の杜でしょうから、記述から察すると、文武天皇稜はこの近くにあるはずですが・・・。ありました。刈り取り前の稲田の間をまっすぐに伸びる細道の先に、「こじんまりした小山」が、そしてその前には鳥居の影が見えています。確かに想像どおりの緑濃い森の陵です。
    ひとりの村人が、竹箒を手にさほど落ち葉もなさそうな石段を掃いています。掃くというより、森を清めているという方が似合いそうな姿です。「掃く」とは、「清める」ことにつながる言葉なのかもしれません。
    壬申の乱以降になると、古墳時代のような大きな陵を作ることがなくなり、律令政治の礎を築いた最高権力者の天武、持統天皇稜の大内稜にしても、また藤原京での安定期を築いた文武天皇陵にしても、その権力や実績から考えると、どこまでが丘でどこからが墳墓なのか分らないほど、小づくりで親しみやすささえを感じる陵となってきます。

    二十五歳で没した文武天皇は、「天皇」といよりも、「軽皇子」の名で呼ぶ方が似つかわしくもあります。軽皇子の父、草壁皇子も二十八歳の若さでなくなりました。軽王子は、かつて父が狩に出かけた宇陀の阿騎野に、亡父をしのんで追慕の旅をしたことがありました。
    そのときに随行した柿本人麻呂が詠んだのが、「ま草刈る 荒れ野にはあらねど 黄葉(もみじば)の 過ぎにし君が 形見とぞ来し」の歌です。
    柿本人麻呂は、草壁皇子を慕う軽皇子の心情の代弁者なのでしょう。そのとき軽皇子はうら若き十歳の少年でした。そして成長して文武天皇となった軽皇子自身も、父、草壁皇子より若くして世を去りました。この稲田の間に続く道は、軽皇子の少年時代から青年時代へと向かう道かもしれません。

    軽皇子の父、草壁皇子は、ここから南西にある佐田の丘に眠っており、祖父、祖母の天武、持統天皇はここからさほど遠くない檜前の丘に眠っています。軽皇子は、ふるさと飛鳥近くの稲田を前にした小づくりな森で、父や祖父母のそばで幸せに眠っています。歴史や権力を抜きにして、この丘の風景には、軽皇子の家族としてのほほえましささえ感じられるのです。  

    (写真)
      1.丘から飛鳥、二上山を望む
      2.稲田の向こうに文武天皇(軽皇子)陵
      3.於美阿志神社の杜
      4.高松塚古墳
      5.檜前の天武、持統天皇陵
    コメントする 2011/09/20 05:18

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