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  • サークル名:原風景を歩く(O.C.)


    ■「寝物語の里」―近江と美濃の国境(くにざかい)

     小川というより、むしろ細い溝といったほうがよいような一筋の流れが、村の畑を東西に区切っています。
    峠でもなく大河でもない。ここが、近江と美濃とのあっけない国境(くにざかい)です。かつてこの溝の両側に番所や旅籠があったのでしょうが、今は民家の裏庭のようなところに、「近江美濃両国境 寝物語」と書かれた石標が立っているだけ、溝の西が近江の長久寺村、東が美濃の今須村でした。
    ここがいつから「寝物語の里」と呼ばれるようになったのかは知りませんが、「旅籠の壁越しに、寝ながら他国の人と話ができた」というほどの国境でした。当時国境(くにざかい)というものは、山脈や大河で区切られ、ある種の緊張感があったものでしょうが、あまりにものどかな国境に、かつての旅人はもの珍しさを感じたのでしょう。
    太田道灌も寝物語の里を歌に詠んでいます。
    「ひとり行く 旅ならなくに 秋の夜の 寝物語も しのぶばかりに」 太田道灌

    美濃側に入った草むらの中に、芭蕉の野ざらし紀行の句碑が立っています。
    「正月も 美濃と近江や 閏月(うるうづき)」

    細溝を境に、西の近江側では銀本位制、東の美濃側が金本位制でした。また、確かめたわけではありませんが、西側では近江弁、東側では美濃弁というように、一筋の溝が東西の経済圏、文化圏を区切っていたというのも興味深いことです。
    関西圏に属する近江と中部圏に属する美濃では、江戸期ほどではありませんが、今も風習が異なる面があるようですが、どうやらこのあたりが東西の境界のようです。

    ■ 不破(ふわ)の関―「壬申の乱」の戦い

    国境(くにざかい)の「寝物語の里」を後に、中山道を「不破の関」に向かいます。国道からはずれ、突然細い急坂を下り、小さな集落を抜けると、川のほとりに出ます。両岸から水辺まで深く切れ込んでいることを除けば、大河でもなければ、風光明媚というわけでもありません。遅咲きの彼岸花が咲く川岸に案内板がなければ、ただ橋を渡って行過ぎてしまいそうな川です。案内板には、「藤古川」と書かれており、この川が「壬申の乱」の折り、美濃から西に向かう大海人皇子(後の天武天皇)の軍勢と、大津から東に向かってきた大友皇子の軍勢が、この川を境に対峙したのです。そしてこの不破(ふわ)での戦いに勝利した大海人皇子の軍は、大和盆地の古京飛鳥も守りぬき、大津に攻め入って、「壬申の乱」は終結に向かいました。
    大海人皇子軍と大友皇子軍の戦いが、徳川家康と石田光成が対峙した「関ヶ原」近くの「不破(ふわ)」の地であったということは、案外知られていません。テレビドラマなどで、何度も描かれてきた「関ヶ原の合戦」に比べ、「壬申の乱の不破での戦い」は、天皇家同士の戦いだったせいか、テレビドラマなどには取り上げられていないからかもしれません。

    「壬申の乱」が終り、大和の飛鳥に都を戻した大海人皇子は天武天皇となり、畿内を守るには重要な場として、ここに「不破の関」を設けました。古代には、「不破の関」は 畿内と東国を隔てる東山道の関所であり、 東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに、畿内を防御するために特に重視された関でした。それ以来、古代にはこの「不破の関」より東を「関東」、西を「関西」と呼ぶようになりました。
    いずれにしても、伊吹山の南麓と鈴鹿山系の北端に挟まれたこの不破の関付近は、古代の壬申の乱の天下分け目の戦いの舞台となり、天武天皇から持統天皇、文武天皇の律令政治に向かう時代の境目でもあったのです。

    ■ (写真)
    1.寝物語の里〈この溝が国境だった〉
    2.藤古川〈この川が壬申の乱の古戦場だった〉
    3.壬申の乱の舞台だった
    4.不破の関
    5.関ヶ原の戦いもこの近くで
    コメントする 2011/10/24 12:25

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