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  • サークル名:原風景を歩く(O.C.)


    紀ノ川のほとりから、石畳の道をたどり、慈尊院の石段を上り山門をくぐると小さな境内に出る。
    去年の桜の頃だった。山門からさらにまっすぐに進むと急な石段があり、近所の人たちであろう、石段に散った桜の花びらを掃いていた。石段の上には、逆光の下で丹生官省符神社の鳥居が黒い影を見せ、春の光が桜の花びらを透して石段に落ちていた。そして今、初冬の同じ道を歩いている。あの日村人が桜の花びらを掃いていたのと同じように、いまは落ち葉を掃いている。

    有吉佐和子の小説「紀ノ川」は、慈尊院の石段からはじまっている。季節は早春の頃で、九度山は朝靄に包まれていた。 
     七十六歳の豊之と孫娘の「花」は、石段を踏みしめるように上っていった。生まれて二十年育った家を後に嫁いでゆく「花」を伴って、豊乃は御影堂の前で合掌した。そこには羽二重で綿をくるみ、真ん中を絞り上げた、乳房形(ちちがた)が下っていた。安産、授乳、育児を願う女たちの民間信仰で、「花」の母親も、さらにその母の豊乃も、同じように祈ったのだろう。
    祖母の豊乃は、早く母を亡くした「花」に語りかける。「何も云うことの無(の)うても、こないしてきてもうたんえ」
    紀州の素封家の言葉は、京言葉にも似た優雅なやわらかさをもっている。そういえば、紀州には、むかし京都の言葉が広がっていったものが、いまに残っているという話を聞いたことがある。私も紀州育ちだが、豊乃の言葉は、紀州の庶民言葉に比べると、のびやかさという点では共通だが、ずっと上品である。
    「紀ノ川沿いの嫁入りは、流れに逆ろうてはならんのやえ。・・・・・みんな流れに沿うて来たんや。自然に逆らうのは何よりいかんこちゃ」
    紀ノ川沿いに住む人は、上流から下流に嫁ぐものだという慣わしがあったようである。紀州育ちの私も、紀ノ川沿いに伝わるそういう話は知らなかった。

    やがて「花」は、駕籠に乗り舟に乗って、紀ノ川下流の六十谷の村に嫁いでいった。そして「花」は伝統的なつつましさや雅さを含みながらも絶対的な存在となっていった。「花」の娘、文緒は母に反抗し、独立心をもって男のように新しい時代の中で生きていった。さらに孫の華子は苦学し、出版社に就職して、戦後世代として育っていったが、祖母、「花」の血が自分に流れていることに気付くようになった。
    明治、大正、昭和とそれぞれの時代に生きた女性たちの太い流れがそこにあった。

    花の義弟、敬作が文緒に話す。「お前のお母さんは、それやな。 云うて見れば紀ノ川や。悠々と流れよって、見かけは優しゅうて、色も青おうて美しい。やけど、水流に沿う弱い川は全部自分に包含する気(きい)や。そのかわり見込みのある強い川には、全体で流れこむ気迫がある」

    吉野山中を切り刻んで、激しく下ってきた「吉野川」は、紀州に入ると名前を変えて、「紀ノ川」となる。渓谷を下ってきた吉野川とは異なり、紀ノ川は平野を太くとうとうと流れてゆく。吉野山中を激しく下る吉野川は「男」であったなら、紀ノ川はやはり「女」である。しかしその流れは、京女のように繊細な鴨川の姿ではなく、見かけは優雅に流れていても、ひ弱な男たちを包含し、ときには洪水を起こして流れを変えてしまう力がある。
    早朝に眺めた紀ノ川のゆるやかな淵。川辺の木々を背にして川面から昇る朝霧。昼間、橋から見下ろした流れの速い瀬。黄昏どきに夕空を映す川面。そこには、時代時代の変化の中で生き方を変えようとも、脈々と受け継がれてきた紀州の素封家の女たちの系譜が読み取られる
    そして高台から紀ノ川を眺めながら思う。いままで京都の由良川、徳島の吉野川、木曽の木曽川とさまざまな川の旅をしてきたが、そこには、それぞれの流域に住む人びとの生き様があり、幾多の物語が生まれ、人格にも似た川の個性が生まれてくる。川の旅は、川の個性をたどる旅でもある。
    コメントする 2011/12/17 08:01

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