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  • サークル名:原風景を歩く(O.C.)








    奥吉野、後南朝のかくれ里
    「よう参ってあげてくれたなぁ。宮内庁の方かえ」

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    奥吉野山中の民宿に泊まったときのことです。
    夕飯どき、民宿の奥さんが、話しかけてきました。
    「お客さんは、予約の電話をくれたから、熊野から魚を取り寄せといたでぇ。予約のない人は、間に合わんから鹿の刺身やけどなぁ」
    奥吉野に住む宿の奥さんにとって、山の鹿肉よりも海の魚の方が上等らしいようです。
    「あヽ、この奥吉野山中で・・・海の魚の刺身よりも、鹿肉を食べてみたかったなぁ」と、思わずのどの奥でつぶやいてしまいました。
    「お客さん、大台の登山で?」
    「いえ、瀧川寺へ自天王さんのお墓参りにね」
    「そうかぇ~、よう参ってあげてくれたなぁ。宮内庁の方かえ」
    「いえいえ」
    「じゃ~、自天王さんの親戚の方かえ?}
    「いえいえ、とんでもない。ただの大阪人ですわ」
    「そうかぇ。毎年自天王さんのお祭りがあってなぁ、以前は宮内庁の方もようお参りに来てくれてたんやで」

    私は歴史についてはまったくの素人です。たまたま谷崎潤一郎の小説『吉野葛』や白洲正子の随筆『かくれ里』を読んだり、土地の紹介資料を読んだりしただけで、後南朝の系譜についてはよく分かりません。
    浅い知識によると、後亀山天皇の曽孫が空因こと尊義王。また尊義王は二人の子供をつれて吉野川源流の三の公谷に隠れ住んだとも、京都比叡山で自害したとも言われていますが、歴史事実は素人には分かりません。その御子が自天王と忠義王。二人はこの奥吉野山中に、それぞれ村人によって匿われ、生き伸びてきました。経過はそれぞれ異なったにせよ、自天王と忠義王の後南朝が途絶えるまでの百二十年の間、この村の人たちにとって、後醍醐天皇以降の南朝の時代が続いていたことは確かです。
    以後数百年たった今も、この谷合の霧の中に、後南朝の伝説は生き続けています。村の人たちにとって、「後南朝」とは何だったのでしょう。都とは縁のないこの村の人たちにとって、都を逃れてきた南朝方とは何だったのでしょう。そして今日まで、その時代のことを、昨日のことのように語りついできた村人の心は何だったのでしょう。

    翌朝、まだ肌寒い中を、河合から北山川支流の小橡川を遡ると、谷の空気はまだ動かず、狭い谷間からいくらか広くなった谷に躍り出た流れは、岩肌の苔を洗って下り、斜めから射す朝の光が川面に銀の粒を撒いています。
    ほどなく自天王が仮御所を設けられたという瀧川寺が対岸に見えてきます。山寺らしく小作りで、十段足らずの石段を上ると、すぐに小さな山門をくぐります。その横には、「南朝遺跡 南帝山瀧川寺 神器奉安之聖跡」の文字が刻まれています。本堂横の細い石段を上ると、「後亀山天皇玄孫 北山宮墓」の文字があります。
    「北山宮」と呼ばれている自天王は、ここに御所を設けられましたが、ある大雪の日にこの村に忍び込んだ赤松一党によって殺害され、自天王の御首(みしるし)と神璽(しんじ)は、一党に奪われたといいます。しかしそれに気づいた村人は、すぐ一党の後を追い、御首を奪いかえしたそうです。

    「わたしら歴史のこと詳しゅう知らんけど、自天王さんのことをうっかり敵にしゃべってしもうた家は、いくら梅干を漬けても、後々までも赤うならなんだって話やで」
    これは昨夜の民宿の奥さんの話です。この数百年間、村人たちはこの里に隠れ住んだ自天王の味方であり、うっかりしゃべってしまった家の子孫は、後々までも肩身の狭い思いをしてきたようです。後南朝の魂は、今もこの谷に浮遊しているようです。

    瀧川寺を後にし、村はずれの水分神社(みくまりじんじゃ)にたどり着きました。鳥居のそばに秋から初冬にかけて咲く「四季桜」が咲いています。昨夜の雨が花弁に残り、その小さな雨粒の中に、この谷の空と光のすべてを映し込んでいます。この谷に起きた後南朝の悲劇も、すべてこの雨粒の中に封じ込められ、やがて滴となって叢に姿を消してゆきました。

    コメント6件を表示する 2012/10/11 17:26

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