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  • サークル名:写真しりとり

    みなさん、おはようございます。
     こちら、GW初日からいい日が続いています。

    先月の中ごろ、彦根の佐和山城址へ花見を兼ねて行って
    きました。

       治部少に過ぎたるもの二つあり    
                島の左近と佐和山の城

     そうです、治部少とは石田三成のこと、佐和山城は
    石田三成の居城でした。
     かれん さんの「ハチ公前は外国人がいっぱい」に
    繋ぎます。タイトルは「石田三成」とします。

     


     昨年は「黒田官兵衛」ブームで、彼の引き立て役に
    されてしまった感がありました(笑)
     とかく、才知のみ語られがちな三成ですが、賤ヶ岳の
    戦いでは、秀吉の為に思う存分槍をふるい武功を賞された。
     その時の勲功により水口4万石の領主となった三成は、
    この地で城より得がたいものを得たのです。
     不出世の将器「島左近」その人です。
     近江水口で四万石の領主となった三成が、その半分の
    二万石をさいて獲得したという。
     これを聞いた秀吉も感嘆し、左近をよんで三成によく
    仕えるようにといったという。

      黒田如水(官兵衛)が長引くと考えていた天下分け目の
    決戦「関ヶ原の戦い」は、嫡子黒田長政の活躍(?)により、
    わずか半日で決着が付き、東軍・徳川家康が勝利した。
     徳川家康は関ヶ原の戦いで西軍を打ち破ったといえど、
    石田三成は再起を図るために逃げており、大阪城には西軍の
    総大将・毛利輝元が健在であったため、速やかに佐和山城を
    攻め落とす必要があった。
     関ヶ原の戦いで敗走した三成は、伊吹山に逃れ、山中を逃
    走中でまだ佐和山城に帰っておらず、三成の父・石田正継
    と兄・石田正澄が佐和山城を守っていた。
     主力部隊は石田三成が関ヶ原に率いていたので、石田三成
    の一族と恩顧武将のほか、大阪からの援軍として松左兵衛・
    長谷川宇兵衛などが加わっていたが、それでも佐和山城の兵
    は僅か2800人足らずであった。
     東軍の先鋒・小早川秀秋らは1万5000の軍勢で佐和山城を
    攻め立てたが、佐和山城は厳重に守りを固めており、弓と鉄
    砲で応戦した。 
     石田正継は小勢で佐和山城を守り通していたが、大阪から
    援軍として来ていた長谷川宇兵衛が小早川秀秋に内通したため、
    佐和山城の情報は東軍に筒抜けになった。
     それでも、関ヶ原の合戦の4日後まで持ちこたえた。
     いよいよ形勢不利となり、この日の早朝、正継は降伏して
    徳川家康に佐和山城を引き渡さすことになっていたが、
    東軍・田中吉政が城門を突破し、佐和山城へと攻め入った。
     正継は「徳川家康に騙されたか」と観念して、妻子を殺して
    佐和山城の天守閣に火を放ち、一族そろって切腹して死んだ。
    こうして、石田三成の居城・佐和山城は落城したのです。

     佐和山城址への入口に写真の銅像がありました。
    コメント6件を表示する 2015/05/02 03:17

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