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著者=檜山良昭 プロフィール

第252回 幕末ジャンヌ・ダークにされた亀遊

~「お騒がせ女」特集(5)~

○遊女亀遊が自決

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 世に苦界に浮き沈みするもの幾千万人とも限りもそうらわず。我が身も勤めする身の習いとて、父母の許したまわぬ仇人(あだびと)に肌許すさえ口惜しけれど、ただただ御主人の御恩を顧(かえり)み、ふたつには身の薄命とあきらめはべりしが、そのもとははかなき黄金(こがね)というもののあるがゆえならめ。この金は遊女の身を切る刃(やいば)にそうろうまま、その刃の苦海(くかい)を離れ、弥陀(みだ)の列剣(れつけん)に帰しまいらせたし。主人に辞して亡き双親(ふたおや)につかえまいらせそうらえば、黄金の光をなにかせむ。おそろしく思う恨みの夢、覚えよかしと、まことの道を急ぎそうろうまま、無念の歯噛みをあらわせし我が死骸を、今宵の客に見せくだされ。かかる卑しき浮かれ女(め)さえ、日本の志はかくぞと知らしめたまわるべくそうろう。

 露をだにいとう倭(やまと)の女郎花(おみなえし)ふるあめりかに袖はぬらさじ 
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 こういう遺書と和歌を残して、横浜の遊郭「岩亀楼(いわきろう)」の遊女である亀遊(きゆう)が懐剣で咽喉を突き、自決したのは万延元(1860)年、一説には7月17日だと言います。

○8歳で吉原に

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 横浜が開港したのが安政6(1859)年6月2日。その1年後にはさっそく開港場近くに遊郭街ができた。数件ある遊郭のうちでも特に豪華であったのが「岩亀楼」です。
 品川宿で「岩槻楼」という遊郭を経営する佐藤佐吉が、「そうだ、開港場に遊郭を作れば、これは儲かる」と、開港と同時に神奈川奉行所に申請書を提出、たぶん役人に賄賂を贈ったのでしょう、すぐに許可がおりて、万延元年夏に横浜に開業した。

 国民世論の9割以上が開国に反対して、鎖国攘夷を叫んでいる時期です。だがね、性風俗業者などは「金、金、金。金さえ儲かればどうだっていい」という連中です。「売れるものならば、お袋の背中の皮まで剥いで売る」という金の亡者。
 
私は大嫌い。全国いっせいに逮捕して、島流しにしてしまえと思っておる。

 遊女の亀遊は品川の岩槻楼の遊女であった。深川で町医者をしている太田正庵の娘であったといいます。8歳で吉原の甲子屋(きのえねや)に売られ、15歳になった万延元年に岩槻楼に移籍した。
 移籍といったって自分の意思ではない。主人の間で「転売」されたのです。佐吉が横浜への出店を進めている時期だから、遊女を集める必要があった。亀遊も横浜店用に買われたのでしょう。

 きれいではあったが、憂い顔で、寂しげな娘であったそうです。
 「孝行で売れら不幸に請け出され」
 親孝行のために遊女に売られ、親不孝のドラ息子に身請けされるのが遊女の宿命です。

○「らしゃめん」と呼ばれ

 長崎丸山遊郭にならって、横浜の遊女も日本人向けと外国人向けとがあった。売れる遊女は日本人向け、売れないのは外国人向けとなっていた。遊女は外国人を嫌ったので、「おまえは日本人向けだよ」と、いったんは日本人を相手にさせ、不人気を認めさせてから外国人に回した。
 だから、亀遊もはじめは横浜で商取引をする日本人を相手にしていたはずです。しかし、その暗い雰囲気が嫌われたのかもしれない。開店まもなく外国人向けに回されてしまった。

 彼女に熱をあげたのはアメリカの貨物船の船員であるイルスミン。数回にわたり、岩亀楼に通っては関係を迫った。
 当時の外国船は食料用に羊や鶏を積み込んでいた。それをみて日本人は、異人の船乗りは長い航海のさいちゅうに羊や鶏を女の代用にするのだと信じておった。だから、遊女も、「羊や鶏のような畜生と同じように扱われてはたまるかい」と、特に異人船の船乗りを嫌悪していたのですな。


 で、これが日本人の妄想かと思うと、そうではない。15、16世紀ごろのスペインやイギリスなどの航海記録などをめくると、船員による獣姦の話が出てくるのです。
 異人の妾になった女性を、「らしゃめん」と呼んで蔑んだ。「らしゃめん」とは「羅紗綿」ということで、羊毛のことです。異人の妾は羊と同じだと軽蔑したわけです。

○遺書と和歌は国粋派の偽作

 亀遊は「らしゃめん」となるのを恥じて死を選んだのです。
 その遺書と和歌とが書き写されて広まると、鎖国攘夷派は勢いづきました。井伊大老暗殺事件があったのが同年3月、鎖国攘夷が盛り上がったところで、彼女の自決。
 遊女でさえ日本人の魂を忘れないで死を選んだ。いわんや武士においておや、その死をむだにすべからず、日本の土を汚す異人を叩きだせと、彼女の遺書と和歌を詠んだ人々は感涙し、攘夷に奮い立った。亀遊は幕末日本のジャンヌ・ダークに祭り上げられたのです。

 攘夷派の武士によってたびたび外国人襲撃が行われたことは、読者の皆さんもご存知の通りでしょう。彼女の遺書が排外主義の火を燃え上がらせた。一遊女の死がこれほどの政治的な影響を持った例はほかにない。

 実はその遺書も和歌も亀遊が作ったのではなかった。
 江戸末期の儒学者である国粋派の大橋順蔵訥庵(とつあん)。江戸小梅で思誠塾(しせいじゅく)を開き、尊皇攘夷を唱えて開国に反対し、討幕運動に身を投じていた。彼か、彼の門弟が偽作したと言われています。
 亀遊はらしゃめんとなるのを恥じて自決しただけ。欝気(うつき)もあったのでしょう。大和撫子の意気地を見せるというような気負いがあったわけではない。これを攘夷のジャンヌ・ダークに祭り上げ、政治運動に利用したのが大橋順蔵一派というわけです。

 彼女はまさかこれほどの大きな騒ぎになるとは夢にも思わないで死んでいったのでしょう。国際結婚に何の抵抗もなくなった現代に彼女が蘇ったとしたら、あまりの変化に卒倒してしまうかもしれませんね。

 大老の井伊直弼(なおすけ)の暗殺に続いて、開国路線を進める老中の安藤対馬守(つしまのかみ)への襲撃事件がありました。大橋順蔵も暗殺謀議に関わったとして逮捕され、宇都宮に幽閉されます。安藤老中の暗殺未遂事件のときに詠まれた落書き狂歌です。

 「段々とおはちが廻り舞台にてまた桜田の二度の狂言」

【絵】岩亀楼異人遊興座敷の図です(歌川芳員(よしかず)作)。岩亀楼は建坪が806坪、庭が205坪の贅を凝らした大きな遊郭でした。異人館と和人館に分れていて、図は異人館です。この図を見てもその豪勢さがうかがえます。現在の横浜公園にありました。ただね、人の集まる場所にこういう施設を作って金儲けをするという発想。こういう発想をする人がかならずいる、というのが情けない(『浮世絵で見る幕末明治文明開化』から転載)。
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