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檜山良昭の閑散余録
講師:檜山良昭檜山良昭
檜山良昭の閑散余録

第441回 天璋院の最期

江戸城返還ならず

 天璋院(てんしょういん、篤姫)は江戸城を退去して一橋家の上屋敷に移りましたが、まもなく一橋家が屋敷を新政府に引き渡すことになって猿江町の下屋敷に移転することとなった。これにともない天璋院も女中衆を引き連れて猿江町に移ったのです。
 屋敷は急に大勢の人を受け入れたものだから窮屈になった。天璋院付の女中衆から不平が出たので、青山にある紀伊家屋敷に移っていただき、さらに戸山にある尾張家下屋敷に移っていただいた。

 この間も彼女は一橋家の当主である茂栄(もちはる)とともに、田安亀之助を徳川宗家の相続人に就けてくれるよう新政府にたびたび陳情していた。新政府は徳川宗家の存続は認めたものの、その相続人や所領のことを決めていなかったのです。

 で、徳川宗家の相続問題は彼女の希望どおりに田安亀之助と決まり、亀之助は家達(いえさと)と名乗り、静岡藩70万石を領地として与えられた。江戸城の返還を望んでいた彼女には不本意な結果であったでしょう。

 しかも、明治4(1871)年7月には「廃藩置県」の大詔が下り、その70万石を新政府に取り上げられてしまう。経済基盤を失った家達は赤坂溜池にある相良藩邸を買い取り、天璋院と住むのですが、とうぜん家政を切り詰めなくてはならず、財政顧問に幕臣であった大久保一翁(おおくぼいちおう)を迎えた。

経費切り詰めに反対

天璋院の錦絵

 大久保一翁は天璋院のお付女中たちにずいぶん手を焼かされた。彼女たちはあいかわらず江戸城時代の贅沢暮らしが忘れられず、経費の切り詰めに反対した。また、お付女中の数を減らそうとすると、「これまで苦楽をともにしてきた者たちだからひまを出すにはしのびない」と天璋院が反対した。

 勝海舟がこんなことを言っている。
 「入費がかかって困ってしまったものさ。大久保なども『奥からつぶれる。しかたがない』と言った。『困れば、私がはいろうか』と言うたが、こんな乱暴者だから、大久保もじつは心配していたと見える。『いよいよ困る』と言うから、『そんなら、大久保さん。どうせそれでつぶれるなら同じことだから、私がひとつやってみよう』と言うた」

自ら裁縫を手がける

 勝が大久保に代わって徳川家の家政を見るようになったのは明治8年ごろらしい。お付女中の数を減らし、何事も女中頼みで暮らしてきた天璋院に自分の力で暮らす方法を教えた。また、世の中の変化を悟らせるために、外出させて、あちらこちらを見物させた。

 「天璋院のお供でところどころに行ったよ。八百善にも二、三度。向島の柳家へも二度かね。吉原にも、芸者屋にも行って、みんな下情(かじょう)を見せたよ。だから、これでところどころに芸者屋だの色々の家を持っていたよ。腹心の家がないと困らあな。私の姉といって連れて歩いたのだが、女だから立小便もできないから、ところどころに知って知らぬふりをしてくれる家がないと困るからの。そのうちだんだんと自分で考えて、アーコーとじきに自分で改革させたよ」(『海舟座談』)

 またこうも言っている。

 「それでずーっとことが改まってきたよ。後には、自分で裁縫もされるしね。『だいぶじょうずになったから、縫ってあげた』などといって、私にも羽織を一枚下すったのを持ってるよ」(同書)

 明治の天璋院は時代の変化に適応し、お付女中なしでも自力で暮らしていける流儀を覚えていったようです。

浴場で転倒し

 明治16(1883)年11月22日の「東京日日新聞」は天璋院が逝去したニュースを載せています。

 「従三位徳川家達君の高祖母にあたらせたまう天璋院殿は、さる十七日ごろとか、千駄ヶ谷の御住居にて御湯をまいりし節、御湯殿にて過ちて躓かせたまいしが、にわかに激しき中風症とならせたまい、その後外国の医師ども召して種々御療養の手を尽させたまいしが、その甲斐もなく、一昨二十日の午前八時に逝れさせたまえり。御年四十九と申す。いまだ御老衰と申す御齢にもましまさぬに、かくにわかに失せたまう。まことに惜しき御事なりと、旧幕府の家臣の向きはもちろん、世の人もすべて申し合いなり」

 浴場で脚を滑らせ、転倒した。そのさいに頭を打ってしまったのでしょう。脳内出血を起こして死去したということらしい。

嫁ぎ先の女を貫く

 激動の時代を生きてきた人にしては、あっけない最期でありました。
 遺言めいたことはなかった。一度も実家のある鹿児島には帰らず、島津家からの援助も断りつづけた。彼女もまた和宮と同じように徳川家の女だという意識をもち、徳川家を倒した島津家に対して胸にしこりがあったのでしょうか。

 和宮にも篤姫にも、「いったん女が嫁いだら、自分は嫁ぎ先の女である」という強い意地がありました。
 2人ともその意地を貫いた。今や日本の女性にそういう意地はない。滅んでしまった過去の美学です。だからこそ私たちは2人の行き方に郷愁にも似たような感銘を受けるのかもしれません。

【絵】
 明治時代になって売り出された天璋院の錦絵です。髪型や着物がまちがっていると指摘されています(『三田村鳶魚全集 第21巻』から転載)。

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国際情報小説、歴史シミュレーション小説など幅広いジャンルで活躍している作家の檜山良昭さんが常陸の国から日々送る「檜山良昭の閑散余録」のオフィシャルサークルです。
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