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スローライフインタビュー
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地域・地方再生の処方箋がここに

お話を伺った方

入澤美時さん

入澤美時さん

編集者
プロフィール

[連載目次]

  1. 原点は少年時代の川遊び
  2. 「じっちゃん、ばっちゃん農業」からの逆転
  3. なぜ「木の家」なのか
  4. 実験を通じて地域・地方の再生を

1.原点は少年時代の川遊び

 過疎化で悲鳴をあげる地域、崩壊が進む農山村――明日の希望が見えない地方の深刻な事態に正面から向きあう本が最近出版された。『東北からの思考』。そこでは、象徴的な「じっちゃん、ばっちゃん農業」に逆に地域・地方再生の道を探ろうとするユニークな処方箋が示され、注目を集めている。
 著者の入澤美時さんは、100年住める木の家を提唱する雑誌『もくたろ』も近く創刊する。さっそくお話を伺うべく、銀座のオフィスを訪ねてみた。

戦後の混乱の中で

舞踊家森繁哉氏との共著『東北からの思考』(新泉社)。
舞踊家森繁哉氏との共著『東北からの思考』(新泉社)。

=地方の衰退や「限界集落」の問題などはとても切実なテーマですが、なかなか打開策がみつかっていません。そうした中で入澤さんは、地域・地方再生に向けてさまざまな提言と具体的な活動をされていますね。
 今回出版された『東北からの思考』もそのひとつですが、他にも、有数の豪雪地帯である越後妻有(えちごつまり)で行われる「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」にも参画しています。また『もくたろ』という木の家を提唱する雑誌をまもなく創刊します。さらに筑波山麓の茅葺き民家を再生したご自身の書斎は、地域集落の環になっているようですね。
 そのあたりの活動と考えをお聞きしたいのですが、歩いて通えるところに住み銀座にオフィスを構える入澤さんが、なぜそれほどまでに地域・地方再生にこだわるのか。まずそこから伺いたいと思います。お生まれはどちらですか。

 家は、僕が生まれる前はもともと東京の荻窪にありました。祖父は、大正天皇の侍医頭(じいのかみ)でたいへんな資産家だったようです。近衛文麿(元首相)が晩年気に入って移り住んでいた、荻窪にある別邸「荻外荘(てきがいそう)」は、もともと祖父が持っていたものでした。近衛さんのたっての依頼で譲ったといわれています。
 無尽蔵の財産といわれていましたが、戦中戦後の混乱の中ですべてを失ったようで、僕が生まれ育った時代はじつに貧しい状態でした。

 家族は戦争中は東京を離れ疎開して、埼玉県の児玉郡神泉村(かみいずみむら、現・神川町)字阿久原(あくはら)の寒村に住んでいました。戦後も引き揚げられず、そこに居続けました。ですから僕は、1947年にそこで生まれました。
 3歳頃になって、柿生(かきお、神奈川県川崎市上麻生)という地域に居を構えました。以来23歳までの20年間は、そこで育ちました。

生態系に恵まれた里山の柿生で育つ

=小田急線に柿生という駅がありますが、新宿まで30分ですから、いまや東京に通勤する人たちが住む住宅地ですね。

 今はそうなっていますが、当時の柿生は戦前までは炭焼きや養蚕をやっているような田舎で、高い山でも150メートルほどの丘陵です。生態系がそのまま残された里山でした。だから子ども時代は山や田んぼでも遊びましたが、シーズン中はほとんど川で遊んでいました。釣りをするより銛(もり)で突いて、ナマズやヤマベ(オイカワ)、ドジッポ(カマツカ)などの川魚を捕るのが楽しみ、そんな生活です。

昭和2(1927)年に開通した小田急線の柿生駅 麻生川(あさおがわ)の現在の流れ 育った家の直ぐ隣り、火の神様の「秋葉神社」
昭和2(1927)年に開通した小田急線の柿生駅。手前の新百合ヶ丘駅が巨大なターミナル駅になっているのと比べると、各駅停車しか停まらない、取り残された駅である。
[撮影=入澤美時]
これが、かつて遊び暮らした麻生川(あさおがわ)の現在の流れ。美術出版社に入って少し経ってから、川は完全に死んだ。河川工事で川の流れは直線となり、生活排水が入ったためである。最後に残った魚は、クチボソ(モツゴ)とドジョウだった。あの豊饒さは、「夢」だったのか。いまは汚れにも強いコイが放流され、かつてはなかったサクラ並木が続いている。
[撮影=入澤美時]
育った家の直ぐ隣り、火の神様の「秋葉神社」。神仏習合で、浄慶寺が管理している。こんな狭い境内で、野球、相撲、コマ遊び、めんこ、かくれんぼ……。すべての遊びをやった。三角ベースの野球が、懐かしい。
[撮影=入澤美時]

 ただ、そこは東京に近いけれど、都会とは異質な共同体がまだしっかりと残っていました。もともとは東京から来たわが家の来歴は知られていましたので、われわれは外来者として見られ、特別視されていました。つまり、「貴種」ですね。地元には「柿生言葉」というものがありましたが、僕自身どうしても馴染めなかった。
 で、どうも託児所時代から僕はみんなから差別をされる前に、逆に絶対専制を敷いていたらしいのです(笑)。あとで当時の友人から聞いて知ったことですが、スポーツにしても遊びにしても、すべては僕の許可なしではできなかったそうです。そして家に帰ると、近所の数人の子どもたちを引き連れて遊んでいました。

 でも、一人遊びも好きでした。小学校低学年のころから縄文時代の土器や石器を集めたり、化石や岩石採集をして本と照らし合わせて調べていたりしました。それから柿生中のコケを集め、育てたりもしていました。ガキ大将をやってみんなと遊んでいるのも好きだし、一人でいろいろ採集したり調べたりするのも好きでした。
 そんなふうな少年時代を送った舞台が、じつに豊饒な柿生という土地だったのです。

20年暮らした家の直ぐ下にある、浄土宗の寺、「浄慶寺(じょうけいじ)」 昭和45(1970)年に入居が始まった住宅公団の分譲団地、麻生台団地
20年暮らした家の直ぐ下にある、浄土宗の寺、「浄慶寺(じょうけいじ)」。集落の人びとがかつて植えたアジサイが有名で、サクラが満開であった。散歩コースの人気スポットである。いつもいたずらをしては、人びとから崇敬されていたここの「ののさん(女性の住職)」に、怒られてばかりいた。
[撮影=入澤美時]
昭和45(1970)年に入居が始まった住宅公団の分譲団地、麻生台団地。新住民は、こうして増えていった。ここは「はら」といって、かつての縄文土器採集地の一つであった。
[撮影=入澤美時]

原点は少年時代の柿生の暮らし

柿生駅前商店街
ご多分にもれず、寂れてしまった柿生駅前商店街。しかし柿生の人びとは、この商店街で育った。いまはバスターミナルが別にできていていいのだが、つい最近まではバスがくると車の対向ができなかった。
[撮影=入澤美時]

 ところが、その柿生もしだいに生態系が変わっていってしまいました。象徴的だったのは、川から魚がいなくなったことです。1950年代末から宅地開発がどんどん進み、その家庭排水のせいと川の直線化工事で川から魚が消えて、とうとうドジョウとクチボソ(モツゴ)を最後にして魚がいなくなってしまいました。それは、60年代後半のことです。
 小学校6年のとき人口調査をしたら、柿生は人口6,000人ほどでした。それが今では20万人近くと、30倍にも膨れてあがっています。そんなふうに宅地開発が進んだわけです。
 「ああ、これで柿生はおしまいだ」と思い、23歳のとき柿生を離れました。早く独りで食べていきたいという気持ちが強かったけれど、とにかく柿生の生態系が変わってしまったことが大きかったですね。以降、浅草に始まり都内に住むようになりました。

 振り返ってみると、僕にとっては柿生で遊び暮らしたことがじつに大きいと思います。後年になって山に凝り、イワナ・ヤマメ釣りに狂い、地政学なんて言いだしてのめりみ、地方の人々の暮らしに目が向いていく。その遡源は、柿生の生態系と暮らしにあった。そんな体験が基盤としてあったから、柳田國男や折口信夫に当然のように近づいていったのだと思います。民俗学や生態学に取り組むようになったのも、その根底には柿生での暮らしと遊びがあったからでしょう。

挫折と反抗の青春時代

=青春時代は波瀾万丈のようでしたが。

 入澤の家は、江戸時代から代々医者の家系でした。ですので、祖父が東京帝国大学を出て医者になり、父も医者にはなりませんでしたが東京帝大でした。わが家では東大に進むのが当たり前になっていましたし、すぐ上の兄もそうでした。
 僕も当時流行始めた越境入学で、世田谷にある山崎中学に通うようになりました。僕は、小学校までは「柿生の神童」だったんです(笑)。当然中学でもトップの成績だろうと思っていましたら、初めての成績発表では一番上に僕の名前がなくて、9番目だった。これはショックでしたね。そのせいか、中学時代の記憶はほとんどありません(笑)。

 都立新宿高校に進みましたが、当然現役で東大にいくつもりでいました。ところが、高校2年の後期のとき、突然のように生徒会役員に立候補して、そこからおかしくなったというか、ガキ大将に戻ってしまいました(笑)。
 僕は信任投票で副委員長に選ばれました。それから僕が呼びかけて、東京都内の生徒会の連合組織、「都高連」をつくろうということになりました。新宿高校の生徒会は追認するということで、一人でやりました。呼びかけたら、40くらいの高校から代表者が集まった。当時は政治党派が賑やかな時代で、そういうところに属する者たちが多かったから、皆この連合組織の乗っ取りを狙ってきました。これではこちらの考えている「都高連」はできないと、途中で準備会を解散しました。

柿生を出て独立

銀座のオフィスにて
銀座のオフィスにて。

 都高連はあきらめましたが、非合法の高校生組織をつくるため、北海道や中国、四国、九州を除いて全国を飛び歩きました。なにしろ、「日本に革命を起こそう」、それだけだったのです。かたわら、文学ではドストエフスキー、ヌーヴォー・ロマン、ビートジェネレーション、思想では、カント、ヘーゲル、ニーチェ、マルクスと、興味はしだいに小説や現代詩、現代美術、映画それから思想……とそちらのほうに向いてしまい、母親の期待を裏切って受験勉強はまったくしませんでした。自分で勉強がしたかったのです。「もう大学には行かない。一人で独立する」と宣言したら、母親は絶望してしまいますし、兄弟は「この入澤の家から大学に行かない人間を出すわけにはいかない」と猛反対してくる。大喧嘩になり、僕は庭にすら出ないで家のなかに1ヵ月半閉じ籠もってしまいました。

=家でストライキを決行したわけですね。

 そうしたら、家族はとうとう音を上げて「好きにしろ」ということになったので、すぐにアルバイトを始めました。先ほど話しましたように柿生の生態系が変わってしまったこともありますし、とにかく一人で勉強して、一人で生活がしたかった。

突っ走った十数年

 美術や文学や思想の本が好きだったので出版社で仕事をできればいいなと思い、母親の知り合いの紹介で美術出版社に入社しました。

=美術書を中心に書籍、雑誌を出す版元ですね。

 その頃は美術出版社が一番元気な時代で、組合もないし、これでようやく自分の勉強ができると思っていました。政治党派とは、美術出版社に入ったことを機会に、除名されていましたし。
 ところが、突然労働組合がつくられることになってしまったのです。やっかいなことになったと思いました。しかしできてしまえば、仕方がない。結局、美術出版社の13年間のうち、10年、委員長や書記長をやりました。
 当時の出版界では、いろいろな労働争議があったわけです。支援を要請されれば、出ていく。だんだん本格的に首をつっこみ始めてしまう。そうなると、一日のほとんどすべてが仕事と組合関係の活動だけに費やされる。自分の時間がなくなってくる。それでも、睡眠時間を削って、酒も呑んでいましたし、自分の勉強も含めやりたいことをやっていました。

 10年以上続けてきて、このままではだめだなあ、と思うようになりました。ところが組合活動だけを止めて、会社に残るというわけにもいきません。そうなると結局、会社も辞めざるをえなくなりました。とても居心地のよい出版社でしたが、このままいるとズルズルといてしまうと思い、1980年に辞めました。30代前半のことです。

溪流釣りで生態系と向きあう

 なぜ地域・地方再生にこだわるかに戻ります。
 美術出版社を辞めてからは、車の免許などは一生取るまいと思っていたのですが、車も買って、イワナ・ヤマメ釣りが本格的に始まってしまいました。
 その頃はまだ離婚していませんでしたので、会社を辞めてから2年間、女房に居候させてもらいました。つまり、「主夫(しゅおっと)」ですね。家族手当すらもらっていたのです。あまりに居心地がよく、このままではいけないと思い、退職金の残りもありましたから、「そうだ、事務所をつくろう」と、いまの事務所・入澤企画制作事務所を立ちあげました。

1984年3月に出版された『溪流フィッシング』(山と溪谷社)
1984年3月に出版された『溪流フィッシング』(山と溪谷社)。これをきっかけに、溪流の本の大ブームが起こる。

 事務所をオープンしたら、ありがたいことに友人たちからたくさんの仕事が舞いこみました。イワナ・ヤマメ釣りに狂っていましたし、溪流釣りのシーズンが終わると海釣りもしていました。当時の釣りの本は、レイアウトもなにもあったものではないくらいひどいできでした。だったら自分でつくってしまえばいいと始めたのが、『溪流フィッシング』(山と溪谷社)というムックです。これが大当たりしてしまいました。そのあと、自分にとって理想の釣り人であった植野稔さんの本を出そうと企画して、『源流の岩魚釣り』(冬樹社)という単行本も出しました。これもよく売れました。それからは、依頼の仕事やコマーシャルの仕事は一切ことわって、自分が立てた企画の出版だけをやると宣言したのです。

 こんなふうにイワナ・ヤマメ釣りに没頭し、7~8年で100冊近くものイワナ・ヤマメ釣りだけの書籍や雑誌(ムック)を出し続けたのも、子ども時代に柿生の川遊びをしたこととつながっているのでしょう。
 このイワナ・ヤマメ釣りで、北海道から九州まで、全国をめぐりました。自然生態系に向き合うだけでなく、人びとの暮らしというものもたくさん見てきました。どんな作物をつくっているのか、どんな産業があるのか、などです。

=なるほど、里山柿生で遊んだ少年時代、そして溪流釣りが、いま地域・地方に目を向ける原点になっているのですね。では、次回いよいよ地域・地方再生について詳しく聞かせてください。

(つづく)

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